家紋や名字、その他「和」に関するコラム

  • 金剛峰寺の寺紋高野山は、平安時代のはじめに弘法大師によって、開かれた日本仏教の聖地です。
    金剛峯寺」という名称は、お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられています。
    東西60m、南北約70mの主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを有しています。(金剛峰寺ホームページより)

    金剛峯寺で、こんな張り紙があります。

    金剛峯寺には、寺紋が二つあります。
    「五三の桐」と「三頭右巴」(さんとうみぎどもえ)
    「五三の桐」は、豊臣秀吉拝領の青厳寺の寺紋。
    「三つ巴」は、高野山の鎮守・丹生都比売神社の寺紋です。
    一般に寺紋は、一つですが、金剛峯寺はこの二つで寺紋とされています。

    ・・・これは、何を意味するか?
    丹生都比売神社・・
    丹生は、水銀
    熊野のように、
    空海も「採鉱」の民と大きな関わりをもっていた。
    高野山は「採鉱」の民のもの、鉱山・・
    狩場明神は、採鉱の民、そのものであった。

    空海が大学を退学し、遣唐使として中国へわたるまでの空白の数年間
    私度僧となって、修験道者として、山野をさまよう
    すでに高野山を知り、採鉱の民と関わりをもっていたとしたら
    遣唐使の莫大な留学費用を調達することも可能だったのではないだろうか。
    丹生都比売神社は、日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神であった。
    【「空海」 遣唐使の“留学費用”の謎】http://ameblo.jp/0nce-upon-a-t1me/entry-11543533832.html

    もう一つの寺紋・・・「五三の桐」
    これは、豊臣秀吉が全国の鉱山を傘下に治めたことを意味する。
    紀州平定後の豊臣家の並外れた富と経済力は、鉱山開発の技術、つまり、採鉱の民を手中にしたことではなかったか。
    秀吉の時代、日本の銀の産出は、世界の3分の1を占めたという。

    奥の院はより強力なパワースポットとして有名です。
  • おのころ島神社(自凝島神社)

    当神社は、古代の御原入江の中にあって伊弉諾命・伊弉冉命の国生みの聖地と伝えられる丘にあり、古くから「おのころ島」と親しまれ崇敬されてきました。
    古事記・日本書紀によれば神代の昔国土創世の時、二神は天の浮橋にお立ちになり、天の沼矛を持って海原をかき回すに、その矛より滴る潮がおのずと凝り固まって島となる、これが自凝島である。
    二神はこの島に降り立たれ、八尋殿(やひろでん)を建て
     先ず淡路島を造り次々と大八洲(おおやしま)を拓かれたと記されています。
    当神社には伊弉諾命・伊弉冉命の二神がお祀りされており、縁結び、安産の神として知られています。また、この二神は天照大御神様の親神様です。
    昭和57年3月に建立された、高さ21.7mの朱塗りの大鳥居が目を引きます。兵庫県のパワースポットとして有名です。(おのころ島神社ホームページより)
  • 太郎坊宮(阿賀神社)【滋賀県】の神紋(家紋)


    御祭神 ― 太郎坊宮の神様 ―
    正哉吾勝勝速日天忍穂耳大神―マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノオオカミ―

    太郎坊宮にお祀りする神様は、伊勢神宮の天照大神の第一皇子神(人間でいう長男)にあたります。
    神様のお名前には「まさに勝った、私は勝った。朝日が昇るかのように、鮮やかに、速やかに勝利を得た」という、勝利を象徴する意味が込められています。そのお名前の通り、勝利と幸福を授ける神様として信仰されています。
    古くから「神験即現(=しんげんそくげん、神様のご利益がすぐに現れる)」の大神とたたえられ、聖徳太子をはじめ、伝教大師最澄や源義経、室町幕府近江守護職佐々木六角氏などの尊崇を集めました。
    現在ではプロスポーツ選手を始め、第一線で活躍する企業経営者、政治家、職人、ビジネスマンなど、業種を越えた多くの方々が太郎坊宮の大神様のご利益を仰がれます。

    御由緒 ― 太郎坊宮の歴史 ―
    古代日本人は、太郎坊宮の鎮座する太郎坊山(赤神山)を神宿る霊山と敬い、崇拝しました。当神社のご神徳は広く知られ、聖徳太子は国家の安泰と万人の幸福を祈願しました。伝教大師最澄も当神社にお参りし、ご神徳に感銘を受けて50余りの社殿・社坊を建立されたといいます。
    また、源義経も当神社に参詣して源氏興隆を祈念したと伝わり、その折に座られた「義経公腰掛岩」が現在に伝わります。このように人々の信仰が深くなるにつれ、この霊山で修業をする修験者が多く現れます。そして、神道を基に天台山岳仏教と修験道が相交わる独特の信仰形態が確立されました。

    太郎坊天狗 ― 神社を守護する天狗 ―
    太郎坊宮は、正式名称を阿賀神社といいます。太郎坊とは、神社を守護する天狗の名前であると伝わります。
    伝教大師が太郎坊山に社殿を建てようとした時には、山奥から現れて手助けしたといいます。
    江戸時代には「太郎坊宮の夫婦岩は天狗の住まいなので、人間は行ってはいけない」と書いてある書物までありました。
    「太郎」という名前は、最も優れたものや最も秀でたものに付けられる名前ですので、太郎坊天狗は人々から畏敬された存在であったといえます。そのため、太郎坊天狗が守る神社、太郎坊の宮となり、やがて太郎坊宮が定着したと思われます。
    滋賀のパワースポットとしてとても有名です。
  • 戸隠神社【長野県】の神紋(家紋)

    戸隠神社【長野県】の神紋(家紋)戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社です。
    その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしています。
    平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場でした。神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えました。
    江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まってきました。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めました。

    明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至ります。

    (戸隠神社ホームページより)
  • 春日大社【奈良県】の神紋(家紋)

    春日大社【奈良県】の神紋(家紋)春日大社は、今からおよそ1300年前、奈良に都ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く茨城県鹿島から武甕槌命(タケミカヅチノミコト)様を神山御蓋山(ミカサヤマ)山頂浮雲峰(ウキグモノミネ)にお迎えした。やがて天平の文化華やかなる神護景雲2年(768年)11月9日、称徳天皇の勅命により左大臣藤原永手によって、中腹となる今の地に壮麗な社殿を造営して千葉県香取から経津主命様、また大阪府枚岡から天児屋根命様・比売神様の尊い神々様をお招きし、あわせてお祀り申しあげたのが当社の始まりです。

    御祭神である武甕槌命様・経津主命様は、日本の国を秩序ある国にするためにあらゆる神々と交渉され、平和裡に治められた功績ある神様であります。また天児屋根命様は神事と政治を守り導かれる神様として、比売神様は天照大御神様だとも天児屋根命様の妃神とも伝えられています。平和と愛の尊い神様であり、それぞれの霊験を仰ぎ御加護を頂いてまいりました。この四柱の神々様は、それぞれ端正な春日造の御本殿(国宝)に鎮座されており、最も尊崇すべき神々として春日皇大神と申しあげ、また、春日四所明神、春日大明神と申しあげてまいりました。

    御創建以来当社は、千古の森の中に朱の柱、白い壁、そして自然の檜皮屋根の本殿・社殿が往古と変わらぬ壮麗で瑞々しいお姿で鎮まっておられます。これは、20年毎に斎行される式年造替という制度により、社殿の御修繕、御調度の新調、祭儀の厳修により日本人の命が連綿と受け継がれてきたからです。これにより、清々しくも尊厳ある気が境内に満ち、神様の広大無辺なるお力や有り難さがしみじみと感じられる名社として今日に至っています。また、全国3000に及ぶ春日の御分社、奉納された3000基の燈籠は、その厚い信仰の広がりを示しています。

    そして今日も昔と変わらず、毎朝毎夕の神事の御奉仕を始め、年間2200回に及ぶお祭りが行われ、日本の国はもとより、世界の平和、万民の幸福、そして共存共栄が祈り続けられています。

    平成10年12月には、春日大社や春日山原始林を含む「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産に登録されました。(春日大社ホームページより)
  • 豊國神社【大阪府】の寺紋(家紋)

    豊國神社【大阪府】の寺紋(家紋)「豊臣秀吉公」「豊臣秀頼公」「豊臣秀長卿」を御祭神とする神社です。明治元年、明治天皇が大阪へ行幸された際、国家のために多大なる功労を残した豊臣秀吉公を大阪の清らかな地に奉祀するよう仰せになったことから、明治六年に京都の阿弥院峯墓前を本社として社殿を造営、大阪には明治十三年に別格官幣社豊國神社の別社として中之島字山崎の鼻(現在の中央公会堂の地点)に創立されました。大正元年に府立図書館の西方の公園内に移転。昭和二十年より宗教法人とし豊國神社て神社本庁所属の神社となり、その後、大阪市の発展に伴う市庁舎増築にあたって、昭和三十六年一月に現在の地へ奉遷しました。
    ここ大阪城跡は、かの有名な石山合戦にて石山本願寺の宗徒が十一年にも渡り、織田信長の猛攻に対抗し続けた場所です。さすがの信長も攻略をあきらめ、和睦を結ぶに至ったほど要害堅固な土地であったことから、秀吉公は天下を平定し居城を築くにあたってこの地を選んだという、御祭神に最も縁が深く奉祀するのに最適な神域とされています。
    豊臣秀吉所縁の神社で出世祈願で有名なパワースポットになっている神社です。(豊國神社ホームページより)
  • 大神神社【奈良県】の神紋(家紋)

    大神神社【奈良県】の神紋(家紋)大神神社。当社の創祀そうしに関わる伝承が『古事記』や『日本書紀』の神話に記されています。『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀まつられることを望んだとあります。
    また、『日本書記』でも同様の伝承が語られ、二神の問答で大物主大神は大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であると名乗られたとあります。そして『古事記』同様に三輪山に鎮まることを望まれました。この伝承では大物主大神は大国主神の別の御魂みたまとして顕現けんげんされ、三輪山に鎮しずまられたということです。
    この様に記紀ききの神話に創祀そうしの伝承が明瞭に記されていることは貴重なことで、当社が神代に始まった古社中の古社と認識されており、ご祭神さいじんの神格が如何に高かったかを物語っていると言えます。
    そして、ご祭神さいじんがお山に鎮しずまるために、当社は古来本殿を設けずに直接に三輪山に祈りを捧げるという、神社の社殿が成立する以前の原初げんしょの神祀りの様を今に伝えており、その祭祀さいしの姿ゆえに我が国最古の神社と呼ばれています。
    「大神」と書いて「おおみわ」と読むように、古くから神様の中の大神様として尊ばれ、第十代崇神すじん天皇の時代には国造り神、国家の守護神として篤あつく祀まつられました。平安時代に至っても大神祭(おおみわのまつり)、鎮花祭(はなしずめのまつり)、三枝祭(さいくさのまつり)が朝廷のお祭りとして絶えることなく斎行され、神階は貞観じょうがん元年(859)に最高位の正一位しょういちいとなりました。延喜式えんぎしきの社格は官幣大社かんぺいたいしゃで、のちに大和国一之宮やまとのくにいちのみやとなり、二十二社の一社にも列なるなど最高の待遇に預かりました。
    中世には神宮寺じんぐうじであった大御輪寺だいごりんじ や平等寺を中心に三輪流神道が広まり、 広く全国に普及し人々に強い影響を及ぼしました。近世に入ると幕府により社領が安堵あんどされて三輪山は格別の保護を受け、明治時代にはその由緒によって官幣大社かんぺいたいしゃとなりました。現在も国造りの神様、生活全般の守護神として全国からの参拝があり、信仰厚い人々に支えられて社頭は賑わっています。
  • 玉置神社【奈良県】の神紋(家紋)

    玉置神社【奈良県】の神紋(家紋)玉置神社は大峰山脈の南端に位置する標高1,076mの玉置山の山頂近くに鎮座し神武天皇御東征の途上として伝承されています。
    創立は紀元前三十七年第十代崇神天皇の御宇に王城火防鎮護と悪魔退散のため
    早玉神を奉祀したことに始まると伝えられています。
    古くより熊野から吉野に至る熊野・大峰修験の行場の一つとされ、平安時代には神仏混淆となり玉置三所権現または熊野三山の奥院と称せられ霊場として栄えました。
    江戸時代には別当寺高牟婁院が置かれていました。その後、慶応四年の神仏分離により神仏混淆を廃し以後玉置三所大神、更に玉置神社となり現在に至っています。
    境内には樹齢三千年と云われる神代杉を始め天然記念物に指定されている杉の巨樹が叢生し、平成十六年には「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されました。
  • 鞍馬寺【京都府】の寺紋(家紋)

    鞍馬寺【京都府】の寺紋(家紋)鑑真(がんじん)和上の高弟である鑑禎(がんてい)上人が宝亀元年(770年)にこの地に草庵を造り、毘沙門天を安置したのが鞍馬寺の創始であると伝えられている。
    その後、延暦15年(796年)に造東寺長官の藤原伊勢人が貴布禰明神のお告げにより、王城鎮護の道場として伽藍を造営し、千手観世音を祀ったとされている。
    寛平年間(889~898年)には峯延が入寺して真言宗の寺になったが、天永年間(1110~1113年)に天台座主忠尋が入寺して天台宗に復したといわれている。更に、昭和22年(1947年)には鞍馬弘教が立教され、当寺が総本山となり、現在に至っている。
    なお、鞍馬寺は牛若丸(義経の幼名)がここで兵法修行したと伝えられていることでも著名であり、牛若丸(義経)縁の遺跡も多く見られる。
  • 晴明神社【京都府】の神紋(家紋)

    晴明神社【京都府】の神紋(家紋)01晴明神社【京都府】の神紋(家紋)2晴明神社は、平安時代中期の天文学者である安倍晴明公をお祀する神社です。
    創建は、寛弘4(1007)年。晴明公の偉業を讃えた一条天皇の命により、そのみたまを鎮めるために、晴明公の屋敷跡である現在の場所に社殿が設けられました。
    古い資料によれば、創建当時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通という広大なものであったとされています。ところが、応仁の乱の後、豊臣秀吉による都の造営や度重なる戦火によって、その規模は縮小。古書、宝物なども散逸し、社殿も荒れたままの時代が続きました。
    その後、式年祭の度に、氏子が中心となって整備・改修が行われ、昭和25(1950)年には、多年の宿望であった堀川通に面する境内地が拡張されるなど、晴明公の御神徳を仰ぎ尊ぶ崇敬者の真心によって復興が進められました。
    近年は、文芸、漫画、映画などを通じて晴明公の存在は広く知られ、全国にその崇敬者を集めるようになりました。平成15(2003)年には、御鎮座壱千年祭が斎行されました。(晴明神社ホームページより)