家紋や名字、その他「和」に関するコラム

  • 菊紋を賜った武将

    菊紋を賜った4人の武将
    菊紋は、皇室の紋とされていましたが、鎌倉時代から戦国時代にかけて、天皇から菊紋を与えられた武士もいました。
    鎌倉幕府倒幕のため、後醍醐天皇に協力した足利尊氏(1305~1358)は、後醍醐天皇から菊紋ともう一つの天皇の紋である桐紋を与えられました。
    足利尊氏は、もともとは「高氏」と名乗っていましたが、後醍醐天皇の名前から「尊」の字を与えられ「尊氏」と名を変えました。
    しかし、その後、足利尊氏は後醍醐天皇を裏切り、みずからが将軍となって室町幕府を成立させました。
    農民の出身ながら天下人にのぼりつめた豊臣秀吉は、後陽成天皇から菊紋を与えられ、これを大変喜んだといわれています。秀吉は調度品や衣服など、あらゆるものに菊の紋章を用いていたといいます。

    菊紋を辞退した2人
    一方、天皇から与えられた菊紋を辞退した武将もいました。楠木正成(楠正成)は、後醍醐天皇に尽くした功績から菊紋を与えられました。しかし、おそれ多いとして、菊の紋をそのまま使わず、菊の花の半分を水に流した菊水紋を用いました。
    徳川家康は、天皇から菊紋を与えられたものの、ライバルの足利家がすでに菊紋を賜っていることを理由に、これを辞退しました。家康は皇室の権威を嫌って、名実ともに自分が天下一になろうとしていたのです。

    皇室の家紋(菊紋)

     
  • 神社に使われた神聖な家紋

    神聖な家紋(木瓜紋)

    神社に使われた神聖な文様
    花を菱形にデザインした木瓜紋は、 すっきりした形状で花の美しさを際立たせており、 古くから日本人に好まれてきた図柄です。木瓜紋はバリエーションも多く、 その種類は1000以上ともいわれています。
    木瓜の文様は、 唐の時代に渡来したもので、 神社の御簾につけられる帽額という布(すだれに布の枠を額縁のようにつけたもの)に使われたことから「もっこう」と呼ばれるようになったとされます。
    バラ科の植物・ボケやキュワリ、 カリンを木瓜と書く場合がありますが、 家紋の木瓜は、 これらの植物とは別のものです。俗説には、 木瓜紋の由来を「キュウリの切り口に似ていることからつけられた」、「ボケの木の切り口に似ている」などとするものがありますが、 鳥の巣を描いた形という説が有力です。
    菱形の中に花がある形が、烏の巣の中に卵があるようにみえるため、木瓜放は子孫繁栄の願いを込めて、 多くの家で用いられました。

    織田家や朝倉家が用いた木瓜紋
    代表的な木瓜紋は、 織田家の五つ葉木瓜があげられます。これは織田信長も用いたもので別名・織田木瓜と呼ばれています。織田家の木瓜紋は、 もともとは朝倉家からもらいうけたもので、 朝倉家は木瓜模様を3つ並べた三つ盛木瓜を家放としています。
    そのほか、 朝倉家が越前(福井県)の戦国大名だったことから、 現在も北陸地方に木瓜紋を用いる家が多く、 朝倉家の先祖である但馬(兵庫県)の日下部家の分家も木瓜紋を用いています。
    (出典:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所)
  • 五摂家の家紋

    古代から絶大な権力を握った藤原氏の子孫で、五摂家と呼ばれる5つの家は、牡丹の花をあしらった牡丹紋、藤の花をあしらった藤紋を用いていました。
    五摂家の起源は藤原氏にあります。大化の改新(645)で功績を残した中臣鎌足が、天智天皇から藤原朝臣の氏姓を与えられ、藤原氏が発祥しました。藤原氏は勢力を拡大し、平安時代には権力を独占、天皇に代わって摂政と関白が国政を司る摂関政治をおこないました。そのため、藤原氏は摂関家と呼ばれ、道長・頼通の時代には最盛期を迎えます。
    しかし、12世紀になると武士の勢力が拡大し、摂関家の勢力は衰えていきます。鎌倉幕府が成立すると、摂関家は近衛家と九条家に分裂、その後、近衛家から鷹司家、九条家から二条家と一条家に分かれました。この5つの家が五摂家と呼ばれて、江戸時代までもっとも格の高い公家とされていました。(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))

    五摂家の家紋
  • 天皇家の菊紋の由来

    皇室には、菊をあしらった菊紋が用いられています。菊は平安時代より貴族の間で好まれた花で、別名翁草、齢草などと呼ばれ、衣服や調度品の文様としても多く用いられていました。
    なかでも鎌倉時代初期、後鳥羽上皇は菊を大変愛された事で有名であり、また歌人としても活躍し、さらに絵画や音楽を楽しむ文化人としても知られており、自分の持ち物に菊の文様を描かせていました。
    上皇が菊の文様を使うようになると、他の公家は上皇への遠慮から自分の家紋に菊の文様を使用する事をやめるようになりました。しかし後々菊紋は皇室に受け継がれ、後宇多天皇のときに正式な紋章と定められました。
    現在は「十六弁八重表菊紋」を天皇の用いる正式な紋章とされ(明治2年の太政官布告によって正式に定められた)、ほかの皇族の紋章は十四弁一重裏菊紋が定められ、各宮家は、菊の変形紋を用いることとなりました。
    特に法的に定められている訳ではないですが、菊花紋章がそれに準ずる日本の紋章としてパスポートなどに使用されている。(桐紋も使われることもあります。)(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))
  • 紋章上絵師の技

    昭和54年 尾西市(現一宮市)無形文化財に指定された小川棄拾氏の意志を受け継いだ小川朋保氏。紋章上絵師として活躍される匠の姿を、実演風景とともに御紹介します。

  • 長い名前と短い名前

    日本人の名字は、漢字2文字から成るものが大半で、全体の8割り以上を占めています。かたや4文字以上は1%に満たないといわれています。

    もっとも長い名字は漢字5文字で、勘解由小路(かでのこうじ)と左衛門三郎(さえもんさぶろう)の2つとされています。(近年の調査では10種近くあるともいわれている)
    勘解由小路家は正保元年(1644)に公家の烏丸光弘の二男が分家して興した家で、京都の勘解由小路の地名にちなんで姓としました。
    もう一つの左衛門三郎は、京都の左衛門府という役所を守る下級武士のある家の三男が左衛門三郎と名乗ったのが始めとされているが、確実な発祥はわかっていません。
    勘解由小路の家紋「鶴の丸紋」はこちら
    日日是家紋-鶴の丸紋

    反対に短い名字は1文字で、これは林、森、原など多くあります。中でも読みも一字の名字は?というと「紀(き)」姓があります。紀姓は古くからある名字で古代豪族と神官の二流があり、古代豪族かの紀姓からは「土佐日記」の紀貫之が有名です。
    他の一字性としましては、「井(い)」姓、「何(が)」姓、「瀬」「野」「喜」「尾」「津」「場」など以外と多く一字読み姓があります。
    (参考文献:名字の謎(新潮OH文庫)、よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))
  • 源平藤橘と家紋の起源

    平安時代の日本人は、「氏」という自分が属する血族集団の中で生きていました。氏は出身地・職業によるもの、天皇から賜ったものなど様々ですが、この「氏」の代表格が『源平藤橘』、つまり、源氏、平氏、藤原氏、橘氏の四大氏です。

    そして時代が下るにつれこれらの氏族は全国に広がり、それぞれの地名・地形、役職などを冠する姓を名乗るようになりました。

    各地に分散した氏族たちは、姓の拡大・変化とともに始祖が使っていた文様を自分の家の紋としました。

    こうして自分の出自を明らかにし、さらに誇りに思う心が家紋を広めていきました。

    最後に『源平藤橘』の代表紋を見てみましょう。
    源氏は笹竜胆紋、平氏は揚羽蝶紋、藤原氏は下がり藤紋、橘氏は橘紋。これらが時代と共に様々な派生・変形を繰り返し二万とも三万ともいわれる家紋が生まれました。(引用:戦国武将の「家紋」がよくわかる本(PHP研究所))

    源氏の家紋

     

    源氏

    平氏の家紋

     

    平氏

     

    藤原家の家紋

     

    藤原氏

    橘家の家紋

     

    橘氏
  • 武士にも家紋が広がる…

    武士にも家紋が広まる武士の間にも家紋が広まったのは、平安時代末期の源平合戦がきっかけでした。当時味方同士の相打ちを防ぐ意味でも、敵味方の区別をつけるため、竿の先に布をつけた旗を掲げていました。また勝利を祈願する意味もあったと考えられます。
    このとき源氏は白旗、平氏は赤旗を掲げていました。(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))
  • 牛車の印が家紋のはじまり

    家紋のはじまり三つ巴家紋は、平安時代の貴族たちが移動手段のおもなる方法として使用していた牛車につけたことが始まりとされています。
    宮廷などに多くの牛車が集まった折りに牛車の置き場所(駐車位置)でトラブルが生じないよう、一目で家格が判るように付けられたと考えられます。
    牛車の印は、藤原実季(さねすえ)が、三巴紋をつけたのが最初と言われています。(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))
  • 一の谷の合戦が武士の家紋のはじまり

    源頼朝の命により武士が家紋をつけたのは、逆落しで有名な「一の谷の合戦」(1184)(鵯越の説もある)でのことといわれています。
    鎧直垂(よろいひただれ)と旗に家紋をつけたことで、誰が戦功者か、一目でわかるようになりました。当時多くの者は家紋を持っていなかったので、頼朝が紋柄を指示し作っていました。ちなみにこの一の谷の合戦では、平氏側も家紋を用いています。
    合戦場では遠くから見ても判別しやすいように、また勇猛さを示す意味でも大胆で力強い、シンプルな図柄が好まれました。(引用:よくわかる!名字と家紋(PHP研究所))
    のちに鎌倉幕府が成立すると、幕府は御家人の名字を登録する際に家紋も一緒に登録させました。こうやって平安貴族の印は御家人の家紋となり、それを真似て御家人以外の武士にも家紋が広まっていきました。